メソポタミア文明

メソポタミアの文化

メソポタミアの文化はチグリス・ユーフラテス両河の下流の流域に紀元前3000年頃に開け、次第に上流にさかのぼっていくことになります。バビロニア、アッシリア、新バビロニア、ヒッタイト、アカイメス朝ペルシアなどの支配者や民族の交替が著しく、都市や国家の興亡が相次いで起こったとされています。メソポタミアとは河の間の意味になり、農業生産が盛んでした。

メソポタミア地方には人々が定住し、農耕と牧畜が行われ始めたのが前5000年前とされており、そのころより造形活動が活発で現在注目されている彩文土器があります。

メソポタミアの建築

初期には日干し煉瓦を組み上げて作る原始的なものが中心であったが、農耕生活の進歩とともに規模も増大し、次第に焼成煉瓦なども使うようになる。

メソポタミアの神殿・宮殿

アーチやアーチを連続されて天井を作るヴォールト手法がつかわれていました。バビロニアの王宮は広い中庭をもち、その周囲に多数の部屋が設けられるようになり、王宮の東北部の隅には有名な空中庭園がありました。内城の正門であるイシュタル門はアーチ構造で造られており、その左右は塔を建て、外壁は彩釉浮彫レンガで飾られた華麗な門でした。

    代表的な建物

  • コンサバード宮殿
  • 中庭式の壮大な規模とジグラット(神殿)と呼ばれる高い塔状の神殿